大したことではないけど自分の中で🤸体育の先生・📕国語の先生現象という名前を勝手に付けてる理屈がある

「体育の先生・国語の先生」現象

と自分の中でいってる理屈がある。

ぜんぜん大したことなくて、大体の人がおなじ理屈をしってるとおもう。

体育の先生は普段めっちゃ怖くて生活指導を兼任してたりしてきびしめに制服の乱れとかチェックしてるとおもうけど…⭐️ みんな怖がって避けたり激しめのあだ名つけたりすると思うんだけど…校外学習とかでふと気さくで面白い一面が見えたりすると、とたんに人気が出たりすることがあるよね〜 (ウチのガッコだけ?!?! マジヤバ〜❤️ 前略プロフ交換よろ〜)

いっぽう国語の先生は大抵柔和な人が多くて、ふだんはしっかりと文章のよみときなど丁寧にしていたり、背後に隠れるエピソードを語ったり、古文だったらユニークな知識を披露したりして、この人は話せる人だなという印象をみんないだきがちだよね。

ところがテストが返却されて微妙な解釈ポイントでバツにされているところを、ここはマルでしょサンカクでしょ、と交渉にいくと、けんもほろろに突き返されたりする。そんなときいつもの柔和な先生から一転、冷たい人間のように感じてしまったりするよね。

つまり、ギャップがあるということがポイント。不良の捨て猫😺拾い現象とも呼べる。人間、なぜか普段の面よりもふとしたときに見せるギャップのほうに強い印象をもってしまうところがあると思う (めちゃくちゃ厳しい人たちがふいにみせた優しさ微笑みの爆弾現象)

しかしながらだれしも同じ面だけをみせて生活してるわけじゃないし、しめるとこしめないとねみたいな理由があったりするわけだね。

だからなんなのだ、というと…ただ思いついたからメモしただけなのだけど。人と接する時にこういうバイアスがあると思って接するといいかもしれない。自分のなかの認知の歪みとかがあることを意識すると、コミュニケーションのうえで不幸が減るかもしれない。